現代の時計の主流は「自動巻き」です。腕に着けて生活していれば、勝手にゼンマイが巻かれる。非常に便利です。
しかし、グランドセイコーのラインナップには、頑なに「手巻き(ハンドワインディング)」のモデルが存在し続けています。しかも、通なファンほど手巻き(SBGW301など)を選びます。
なぜ、わざわざ不便な方を選ぶのか。そこには、効率化された現代社会で見失われがちな「豊かさ」があるからです。
今回は、GSの名機「キャリバー9S64」を通して、手巻き時計の奥深い世界へ誘います。
1. 手巻き時計は「生き物」である

自動巻きやクオーツ時計は、放っておいても動いてくれます。しかし、手巻き時計は違います。あなたが手をかけなければ、止まって死んでしまいます。
「手間がかかる子ほど可愛い」と言いますが、手巻き時計はまさにそれです。毎朝、決まった時間にリューズを巻き上げる。命を吹き込む。
この行為を通じて、時計との間に持ち主だけの「絆(ボンド)」が生まれます。
「今日もよろしく頼むな」──時計に触れるその一瞬が、自分自身のスイッチを入れる儀式になるのです。
2. キャリバー9S64。72時間の余裕
一般的に、手巻き時計は毎日巻くのが基本ですが、グランドセイコーの主力手巻きムーブメント「9S64」は、パワーリザーブが約72時間(3日間)もあります。
金曜日の夜に外して、土日放置しても、月曜日の朝にまだ動いている。これは実用上、非常に大きいです。
「手巻きは好きだけど、毎日巻くのを忘れて止めてしまう」というズボラな人(私です)でも、9S64なら安心して使えます。
トルクの強いゼンマイを採用しながら、持続時間も確保する。ここにもGSらしい「実用性への執念」が見て取れます。
3. 指先に伝わる「カリカリ」という快感

手巻き時計の良し悪しは、「巻き心地」で決まります。ぜひ、店頭で9S64のリューズを回してみてください。
「カリ、カリ、カリ…」──指先に伝わる、コハゼが歯車を弾く感触。その感触は、重すぎず、軽すぎず、極めて滑らかです。
安価なムーブメントのような「ジャリジャリ」した不快な感触は一切ありません。まるで金庫のダイヤルを合わせているような、精密機械を操っている高揚感。
この感触を味わうためだけに、無駄に巻きたくなるほどです。
4. ローターがないから実現できる「薄さと美しさ」
機能面での最大のメリットは、「薄さ」です。自動巻き時計には、裏側に半円形の重り(回転ローター)が付いています。これがムーブメントの厚みを増し、ケースを分厚くしてしまいます。
手巻きにはローターがありません。その分、時計を薄く、ドレッシーに作ることができます。9S64搭載モデル(SBGW301など)の厚さは、約11.7mm。シャツの袖口にスッと収まる、上品なサイズ感です。
裏蓋からの眺め
また、ローターがないため、シースルーバックからムーブメントの全貌を遮るものなく鑑賞できます。
美しく磨き上げられた受け、ルビーの赤、テンプの動き。工芸品としての美しさを堪能するなら、絶対に手巻きです。
5. 忙しい朝にこそ、深呼吸する時間を
スマホを見ながら、トーストを口に放り込み、駅へダッシュする。そんな慌ただしい現代人の朝。
だからこそ、時計を巻く「20秒間」だけは、立ち止まってみませんか。窓の外の空を見ながら、無心でリューズを巻く。その静寂な時間が、心のチューニングになります。
「急がば回れ」──一見無駄に見えるこの時間が、実は一日を穏やかに過ごすための安らぎを与えてくれます。
6. まとめ:不便益を楽しむという贅沢

便利さを追求すれば、スマートウォッチに行き着きます。時間は自動で合うし、メールも見れる。
しかし、私たちは機械(マシン)ではありません。心を持つ人間です。効率だけでは満たされない心の隙間を埋めてくれるのが、手巻き時計という「愛すべき非効率」なのです。
自分で巻かないと動かない。そんなか弱い相棒を、一生かけて守っていく。
キャリバー9S64は、そんな豊かな人生のパートナーにふさわしい名機です。